2018年05月29日 思い出 名越 文代 さま (平成12年卒) その日(1997年)土曜の半日勤務を終え、帰途同僚とびわこ草津キャンパス(以下BKC)の学食(ユニオンスクエア)に寄った。キャンパス中央広場の噴水は薄日の中で、幾筋もの細いしぶきを高々と上げ、周りで若者達はなにやら楽しげに歓声を上げていた。 ユニオンスクエアの館内は広々と明るく、コンビニもあるらしい。土曜でも大勢の若者で賑わっていた。広い食堂のあちこちで学生グル-プが気勢を上げたりして盛り上がっている。ラーメン鉢を前に同僚は言った。 「働いている人は明るく愛想はいいし、学生さん達も生き生きと活気があっていいね」 帰りがけ「社会人入試説明会」なる立看板を見かけ、同僚に断って急遽立ち寄ってみることにした。定年退職を間近にしていたが、先は未だ無計画だった。渡りに船、ご縁があったのであろう。社会人枠自己推薦で経済学部「ヒューマンエコノミ-」に入学することになった。 入学した1997年の1年間は、衣笠の東門近い学舎で受講することになった。朝、一階の学生ラウンジに入ると大勢の学生で一杯だった。中でも強烈に印象に残っているのは、緑色縦型の公衆電話前の待ち行列である。女子学生は取り憑かれたように、超タッチで番号をプッシュしていた。今、思えばあれがスマホの先駆けで、あの頃がデジタル化の黎明期だったのかと。 衣笠学舎の生活もそれなりに慣れて図書通いも日常化していた。晩秋の雨は背高の樹木に囲まれた図書館周辺をしっとりさせ、人々は傘をしぼめ足早に離合していく。 あれは「経済理論Ⅰ」を受講中だった。窓沿いの席で、鉛色の上空から樹々に降り注ぐ霧雨を見やっていると、K教授は、 「この季節、この辺りに降る雨を北山時雨と言うのですよ」 前席に陣取たシルバーシート組(社会人学生)の誰もが感慨深げに頷いていたっけ。 1998年経済学部がBKCに引越てきた。同時進行でBKCに近いT小学校で半年間、私は新任養護教諭の校内研修(文部科学省指定)を担当することになった。退職してもう1年が経っていたが、元の仕事は体ごと難なくこなせてしまう。 新築なったコラーニングハウスの周りに植樹された木々はまだ弱々しい。その先の森でウグイスが優雅に我々を歓迎してくれた。予期もしなかった突然のプレゼントに隣の友とほほえみあったものだ。 K教授は「経済理論Ⅱ」の講義中しみじみと、 「卒業生も山一証券で働いている。支援をしなくちゃ」 大学は厳しい師弟の関係性で成り立っていると思っていただけに、K教授の言葉が嬉しかった。 社会人学生時代に経験したかった語学留学、2000年2月友人とJ社主催の2週間のショートスティに参加した。夏真っ盛りのニュージランド、オークランド空港から車で4時間のウィティアンガは、緑豊かな港沿いの街だった。投宿先は同年配の自然志向夫婦宅、そこには先客の老婦人がいた。彼女を私は「ロンドンママ」と勝手に呼ぶことにした。彼女の会話は決まって「ドユノウ」から始まる。到底内容は理解することは出来なかったが、3日も経つと、解らないなりに単語の一つ一つがすっきりと、耳に入ってきたから不思議である。「ここに3ヶ月いることができたら!」と、痛切に思ったものだ。 2001年2月末から2週間、介護保険準備中の草津市役所で「インターンシップ」を経験した。自主行為ではあるが「人のいない早朝の職場掃除」で看護学生時代を思い起こした。それにしても介護保険は、2000年8月、ゼミ生として視察参加したデンマークの当事者中心のそれとは雲泥の差がある。 2004年辺りから留学生の「日本語講座」に経済学部卒業生として、何回かボランティア参加した。ご縁でネパールからの留学生家族とおつきあいする機会があった。齢を聞いたら5本指で教えてくれた女の子は、手垢や書き込みでよれよれになった「日本語インド版テキスト」や、新聞折り込みチラシを貼って私が作った栞も持ち歩いて、こちらが舌を巻く程沢山の語彙を覚えてくれた。 現在も時折思い出すのは、友達と待ち合わせたBKCエポック(宿泊研修棟)1階のラウンジからの眺めである。 エンジ色ですり鉢状に窪んだ広いグランドを回り込む車専用道路、バスや小さな車体の流れが桜並木のカーブに沿い、強烈な夏日は車体は照り返し、冬は寒空に垂れ込んだ雲間に遠のく車体が吸い込まれていくよう。 琵琶湖より遙か高台のBKCの広場では、寒風が底から砂を巻き上げる事もある。以前、勝手に名付けた「いたずら風っこ」の仕業らしい。大津では最南端の地利(ちのり)、草津ではここBKCで。「風っこ」は児童や若者が集まる広場が大好きらしい。