2022年02月04日 思い出 鈴木 顕弘さま(昭和60年卒) 経済学部の思い出 昭和六〇年三月卒業 鈴木顕弘 (1982年5月、中央バイクに乗っているのが鈴木氏) 立命館高校を卒業して経済学部に入学した。当時は浪人生も多く、彼らが必死の受験勉強を経て大学に入ってきたことを実感した。付属高校出身の私には「必死」の経験がない。高校に立命館大学の説明に来た先生方も「立命館高校の生徒はもっと勉強して進学してほしい」と述べていた。 「私は馬鹿だったのか」確かに入学後、大学の講師に「このクラスで立命館高校出身の者は、手を上げて」と、意図不明の挙手を求められたことがある。「大学では、付属高校出身者が軽く見られている⁈」中学から立命に通う私は母校愛が強かった。それを軽んじられるのは許せない。ようし、経済学部をトップで卒業し、立命館高校出身の意地を見せてやる。その日から私の猛勉強が始まった。 講義には百パーセント出席した。教授の著書は真面目に読んだ。一回生終了時に手にした成績表は、オールAだった。これはやれる!。二回生からは、この勉強のリズムを繰り返した。 友人に貸した私の講義ノートがコピーされ、試験前に出回った。見知らぬ学生が私のノートの写しを読んでいるのを何度も目撃した。大学東門前で売っている講義ノートより、私のノートの方が精密であるとの自負があった。 生涯の友もできた。体育会に所属するK君である。彼は一生忘れられない言葉を数多くくれた。例えば 「試合に負けた選手がインタビューで『一生懸命に戦ったので負けても後悔はしていません』と言っている。あれは嘘や。必死で戦い、それで負けたなら、本当は悔しくて仕方ないはずや。『後悔していない』と言う奴は、試合中、苦しい事に耐えられず、負けても仕方ない、と思った奴や」K君は長崎県の出身。九州男児とは、彼のような人物を指すのか、と感じ入った。 一方、学外の生活では、友人達とテニスサークルを創った。当時の経済学部には女子が少なかったので、部員募集にあたっては他大学(主に女子大)に部員勧誘チラシを交代で配りに行った。恥ずかしくて女子の顔を見られず、うつむいたままチラシを配った記憶がある。男子校出身で当時はまだ純真だったのだ。 苦労の甲斐があって、他大学の学生も入部してくれ、何とかテニスサークルとして産声をあげることができた。サークル名は西大路通りを英語に訳して「ウエストサイド」とした。初代部長は私が就いた。西院や向島の市営コートで練習した。合宿地を探しに友人と、伊豆半島や白馬高原、淡路島を訪ねたこともあった。 四回生となり卒業式が近づいた。学業でトップを取り、偏見を覆してやる、の思いをずっと貫いていた。成績は、さすがにオールAは維持出来ず、3~4個のBが混じっていた。しかし、私以上に講義に出席している学生は居なかったし、経済学部で一番の成績を取っているとの自信があった。あとは卒業式のみ。学部代表で壇上に上がった私は、立命館高校万歳、と叫ぶ事を夢想していた。ところが卒業式が近づいても、学部代表で出席してほしいとの呼び出しがかからない。おかしい。そこで傲慢を承知で経済学部事務室を訪ね、誰が学部代表なのかと、職員に詰め寄った。すると 「今の本学では、成績に順位をつけていない。さらに卒業生代表は、例えば以前の他学部では、車椅子で通学した学生が選ばれているのです。申し訳ないが、今年の経済学部の代表も既に決まっています」と。 何ということか。四年間振り上げたままの拳をどこに下ろしたらいいのか。悔しい、悔しい。せめて所属ゼミの教授には成績表を見せて思いを伝えようと、研究室を訪ねた。「本日は不在」の札が出ていた。 私はその日の午後、立命館高校を訪れ、当時の担任に四年間の行動と胸の内を、悔し涙を交えて打ち明けたのであった。 だから私は「立命」には、無限の母校愛をずっと持っているが、「立命館大学」は好きになれないのだ。 数年前に私の息子も立命大に入学し、これで父・私・息子の三代が立命にお世話になった(三代とも付属中高出身である)。 大学卒業後に勤務した会社は四年前に定年退職し、今は系列の会社に勤務している。京都市に住み、今も時々衣笠キャンパスを訪ねている。以学館は当時と変わらないが、新しい建物が増えた。女子学生が多くなり、歩いている学生もあか抜けている。そんな中、当時の私のように、ギラギラした思いを持った学生はいるのだろうか、後輩たちは誇り高く頑張っているのだろうかと思うのである。 (2021年、現在の鈴木氏)